12/16/2007

先週の日曜日、こちらで知り合いになった外大院の先輩にあたる方が関わっている展覧会に足を運ぶ。
その名も〈現代日本工芸展〉。コンテンポラリーアートに関わっていると、どうしても伝統工芸や教会美術といったいわゆる「古い」とされるアートに接しなくなるので、いい機会を得た。
場所はモスクワ南部にあり、住んでいる寮から遠いのだが駅からそのギャラリーがすぐなので、まぁ機会があればもう一度訪れようかと。

さてギャラリーでの展示だが、美術工芸品を見たというより郷愁感が先にこみ上げてきて、懐かしいの一言に尽きます。とはいえ、コンテンポラリーアートの影響も受けているとかかれていたとおり、どことなくブランクーシやジャコメッティの彫刻を彷彿とさせます。完全に憑かれていますな。



この展示は世界の何カ国かを巡回するようで、日本の紹介も兼ねており観光PRのビデオが流されていた。それを見てコタツが恋しくなるばかりです。とはいえ、この展覧会を批評するとすれば、伝統という敬遠されがちな観点をコンテンポラリーの文脈に合わせやすい工芸に的を絞ったと言うことができるかもしれない。現に日本工芸で装飾という概念がどう解釈されて造形に反映されているかわからないが、見た感じでは西欧や日本絵画に比べて素材と装飾が一体になっているものが多いため、造形性が前景化しやすく無装飾に近い。だからモダンアートの「装飾の削ぎおとし」と相似して見える。もちろん、それに至るプロセスは異なるが、我々が造形作品を受容するまず第一に視覚があるため、どうしてもそのプロセスは後回しになってしまう。だから、視覚的相似から対象を結び付けてしまう。

まだまだ勉強不足。


どうでもいいけど、ギャラリーの入り口に猫がいて妙になついてきたから、その写真をアップします。













12/07/2007

報告3

またまた報告。

昨日、学校の図書館で5-10分ほど、居眠りをしていたら日本から持ってきた携帯を盗まれてしまいました。
まぁ、日本でしか通用しないものだし、時計代わりに使っていたのですが、友人知人のメモリーを盗まれてしまったので、帰国後が大変だなー。かなりへこみました。

それもあって、ちょうど携帯を買わなければならなくなり、本日購入。
こちらの携帯は日本と異なって、機種が高く(5,000-50,000円位の幅、私のはソニーエリクソン社のもので約7,500円くらい)通話できなくなったらプリペイドカードを購入するという仕組み。
何かとゼミの教授に携帯に電話してくれと言われていたので、まぁこれで何とかなった訳です。土日に開催されるロシア・ユダヤ学会の発表を聴きに来いといわれていたので、これで会場で連絡が取れます。

あとはTABに寄稿記事のための写真をあるギャラリーに撮影しに行きました。そこではたらくロシア人の女性が日本に一年滞在していたということもあり、かなり情報を提供してもらっています。それとその娘がかわいいから、もう一度くらい足を運びたいので、何とか理由をつけてもう一度訪れようかと。

うつつを抜かしながらも、『10+1』の記事の資料のため、その娘からモスクワ建築事情をギャラリストの観点から感想を述べてもらいました。昨日、語学の先生にもきいたのですが、やはり同じくモスクワの最新建築プロジェクトで目を見張るものはないとのこと。モスクワッ子にとって最新建築は忌み嫌うべくものらしくスターリン時代の建築(1930-1950年代)を保存しようという動きがあるみたい。とはいえ、来年に、そうした建築物を個人に売却する法律が施行されるらしく、理解のある人に渡れば修復・保存されめでたしとなるのですが、そうでない人に渡るとクラブやスパ、デパートといったその建築物には不釣合いなものが益々増えるもしくは建築ではなく土地目当てで多くが買収される、とある新聞では警鐘を鳴らしておりました。

実際モスクワの土地価格は週ごとといっていいほど高騰が進んでおり、その恩恵にあずかるビジネスが生じています。
以前からモスクワ中心部に土地をもつもしくは住居を持つ人の住居賃貸で、彼らは働かずとも財産収入で喰っていける。老人とかであれば、まぁ善いとしてそれを告いだ若い世代を中心にこのビジネスが進んだら、どうなることやらと多少興味をもってこの現状を見ております。すなわち、紀元前の都市国家アテネの末期のように働かずとも豪華に生きていける層と血肉を削っても生活の保障がギリギリの層とに分かれるのでしょうか?とりあえず懸念の色を示しておきます。

ただ気をつけなければならないのは、これがビジネスとなればそれを行う人達も「労働」しているわけであって、非難することができない。これを自らに当てはめ考えてみると、汗水たらした働いていないわけだから(研究とバイトでやりくりしているから)、自らは彼らと比べてどういう立ち位置になるのだろうと日々考えております。だがそれをも「頭脳労働」とくくるのであれば、「労働」という概念がいかに恣意的に操作されやすいかということが見えてきます。

と携帯が盗まれてから長々と考える日々です。とりあえず、上記のギャラリストの女の子をデートに誘うことが最優先課題か。

12/05/2007

報告2

今日はうれしいことが二つ。

一つ目はかなり長くなります。
外国人学校(交換留学のため通常は語学の授業が中心)在籍なんですが、11月に開催された<構成主義国際会議>という怪しげな学会で知り合いになった在籍学校(ロシア国立人文大学)の教授に大学の授業(ゼミ)を取らせてもらうよう懇願し、「ロシア・ソ連におけるユダヤ文化」という授業に参加しています。その教授(ユダヤ系ロシア人)は上記学会で私が研究しているエル・リシツキイ(1890-1941)の作品に関する発表をしており、ユダヤ文化という枠組みでアヴァンギャルド運動を見た場合どういう観点を提示できるかという研究をされています。そのため、ユダヤ文学や芸術に特化されているのですが、土台はヴラジーミル・マヤコフスキイという詩人の研究で、今日始めて彼のマヤコフスキイ研究の著作を知りました。大学院に入るきっかけとなった、指導教官(今は学長)の著作もマヤコフスキイ。何か新しいことをしようとする際に、マヤコフスキイという詩人が付いて回るとはね…
まぁ、現代ロシア文学・文化においてマヤコフスキイは無視できないファクターだから、出会う確立は高いのだけど、ビンゴで来るとは。うれしいというより宿命的な流れを感じました。これが一つ。

もう一つは建築雑誌の『10+1』で世界の建築事情記事の執筆依頼がきたこと。
これは日本にいるとき記事を執筆させていただいた、Tokyoartbeatの藤高さんの紹介で回ってきた仕事。
ちょうど金に困っていたから、「まともな飯にありつけられる」と喜ぶ一方で、授業で手一杯の中でネタを探すのに苦労しています。
とはいえ、勝手に建築様式史を学び始めていたので、ちょうどいいプレゼンの機会も得たわけです。
これがもう一つ。

この二つがソ連のユダヤ系建築家の研究に接続できれば博士論文のネタに使えるんだが…
それは求めすぎといったところか。

とりあえず、研究も大事だけど、早くロシア語の格変化につまずかないよう、流暢にしゃべれるようになれないとなー。
と焦りながら、ラジオを垂れ流して耳を慣らす毎日です。 
あーしんどいわ。

11/26/2007

モスコーより打電

まずは、長期更新できなかった理由を簡単に記します。

モスクワに到着してすぐにPCが壊れて、モスクワのPCショップに修理を依頼。
一週間のところを三週間かけられてしまい、その上PCは回復せず。

こちらのネット環境は悪くないのですが、いかんせんロシアのウインドウズでは日本語が打てない。
よってメール返信は英語ないし緊急の要件だけ、知人に借りておりました。

結局、一ヶ月後モスクワよりヤフオクにてIBMのX31を落札後、家族より三週間かけて発送してもらいました。
しかしながら、親が気を使ってくれて外付けのDVD機器を送ってくれたのですが、そのおかげで通常重量をオーバー。

そのためモスクワの国際郵便局に超過料金(約\8,000)を支払いに行き、個人通関までさせられるという羽目に。

ともあれ、自由にPCが使えて一安心。

PCが使えなかったため、研究に必要な本を買い漁り、読み進める毎日。
こちらでは、1930年代のソ連建築様式史、特に実現しなかった足がけ20年かかった建築プラン《ソヴィエト宮殿》を中心に勉強しております。そのため、読んでいる本は『Architektura Stalina psichologiya i stil' スターリン建築 その心理と様式 - D.Chmel'nitskiy 2007』、『Zodchiy Stalin 建築様式スターリン- D.Chmel'nitskiy 2007』、『Kul'tura Dba 文化その二 - B.Papperny 2006』。
いわゆる美術史からは「クズ」とされる社会主義リアリズムの中でも爪弾きされるジャンル。「悪趣味」です。ただしこれをいかに「美学」に絡めるかが面白いと考えており、グリーンバーグとクンデラの「キッチュ」とは別の概念が引き出せれば冥利に尽きるかと。

身の回りでは、出発前に友人たちと死ぬほど酒を飲んできたため、こちらにきて交友を深める飲み会(ベチェリンカと呼ぶ)もあまり出ず、非常に有益な時間をすごしております。まぁ、年も年だし同世代の連中と飲んでないと楽しめないんです。会話に合わせるのも疲れますし若いパワーについていくのもダルい。そのため、酒の量も適量かつ健康にもよいということになり、日本にいるときより健康に生活しております。

長くなりましたが、とりあえずの報告。

9/21/2007

世界の果て

9/15(土)、イリヤ・カバコフ『世界図鑑』神奈川県立近代美術館の葉山にて開催されるとのことで、TABでのレビューついでに鑑賞しに行く。








絵本ということだったので、ロシア・アヴァンギャルド時代のような絵本(2004年に東京庭園美術館でかいさいされたような作風)だろうと思いきや、ちょっと違う。何というか、「あーソ連の70-80年代の絵本ってこんな感じか」という印象を受ける。これは入り口すぐのところでカバコフが記しているように、「職業」として制作したものだから「僕の独自性が発揮されたものではありません」という発言に由来するのか。






ふつうなら、「じゃあ鑑賞する意味ないじゃん」といきたいとこだが、カバコフが「自分のため」に制作した作品(トータル・インスタレーションとして括られている)と見比べると面白いかもしれません。








カバコフの画風がどうのこうのというよりも、彼のイラストしか展示されていない。だから、当時の他の絵本と比べようがなく、どの点(筆致、色彩センス、モチーフの捉え方、具象的OR抽象的とか)で「カバコフ風」なのかわからない。これは「個展」だから、他との比較がなくてよいのか?「独自」とか「~の作品に似ている」とか鑑賞者が判断すべきだから、「こんな感じで他の作家は描いてます」というのを展示してもいいと思うんだけどな。








文句ばかり言ってないで、展示の良かった点は、薄暗さと一定の高さで配置されているから絵本のページを繰るように鑑賞できたところか。絵本というメディアが小さく美術館の小ささは相対的に大きく感じた。あとは絵本ついでに制作したと思われる塗り絵を飾るコーナーがあるんだが、「これ検閲に引っかかるでしょ」という内容の言葉があったりと、必ずしも「体制に絡めとられた」わけでもない作品が展示されていたりと、カバコフの「綱渡り」的センスも垣間見ることができる。






それにしても、携帯(ソフトバンクのノキアのやつ)が全く通じないのは痛かったな。ランチは2000円だし…まぁ、風景が綺麗だから、展示作品を見ずとも観光として行くのも善いかもしれません。









海一面に囲まれ、もう存在しない国、ソ連時代の絵本に囲まれる。どことなく、エーリク・ブラートフの《水平線》(上図)を思い出してしまったのはソ連絵画病ですかね。






とにかく博士には出費がかさみました。ま楽しかったから、いいか。

9/16/2007

あまりに学長的な。

またもやタイトルに内容の示唆を込めてみた。


ドストエフスキイの新訳(『カラマーゾフの兄弟』)で破格の注目を集めている(と思う)亀山郁夫氏が、私の師(指導教官)です。一応美術史とは言え、地域研究科に所属することもあって一国の文化として括られ、彼の指導を給わっている次第であります。

だから、文化史をベースに修士と博士課程で研究に勤しんでいたこともあり、私は美術史や美学の一般的知識に欠けております。かといって「かの国」の文化全般に通暁するわけでもなく、非常に狭い時期のあるアーティストを追い続けている。そんな私にも9/13(水)に救いの手は差し延べられました。

私が留学前ということと、指導教官が学長職就任し指導教官がドイツ語の教授に移るということで、現段階での博士論文計画をご高覧頂くことになったのです。

元々対象と時代、そしてケース・スタディーとして作品分析で用いる作品群(展覧会構成と建築プラン)は固まっていたので、一ヶ月前から日々弛むことなく概要とレジュメを書き続けておりました。表現に技巧性を求められたものの、何とか博士論文執筆許可が下りました。

しかしながら、基盤分野が全く異なるのに、核となるのは、全体主義時代(1930年代)おいて対象とする芸術家がミメーシス(模擬的再現)とエクスプレッション(自己表出)を包含し権力者ないしは神に近い立場にあったのではないか。それによって、教条主義的な社会主義リアリズムという芸術潮流の只中で、作家性を保つことが出来たのではというもの(その芸術家の名前がある言語で「神」という意味なのです)。結局、指導教官の影響、どっぷりだったんだなーと改めて実感した。

書けるんだろうか。

9/14/2007

海辺にて2

タイトルとは必然的にその内容を示唆するものである。

そういうわけで、今回も友人の企画展(「都市との対話展」)について。

9/11(火)、純粋に鑑賞を目的で再びBankart1929NYKに赴いた。平日なので周りの音もなく、旧倉庫という展示会場の静謐さも手伝い、落ち着いた環境で観ることとなった。

ちょっと待て。そもそも「落ち着いた」ということ自体、都市の中であり得ないだろと突っこみたくなる。だが、そこまで厳密に突き詰めるとあらゆる企画展が破綻してしまうので、作品の傾向を挙げるにとどめる。

様々な作品が出展されていて、それなりに面白いが、気になるのはいわゆる「絵画」が全く選定されていない点だ。一点、デザインのようなドローイングはあるがよく見るとニードルポイントの作品であって「絵画」ではない。

キュレーターが理論的支柱の1つとして挙げている、ヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代の芸術』の中で、下記のようなことを述べている。

即ち、芸術の受容層がハイソサイエティー(少数)から大衆(多数)に移りゆく過程に伴い、芸術も質から量へ転化する。そのため、今まで支配的であった絵画や彫刻といった表現媒体ではなく、新たな表現媒体である映画や写真に芸術の概念は移行すべきである。その中で礼拝的価値から展示的価値のパラダイム・チェンジが生じ、手業による職人技や個人芸ではなく複製という手法こそがそれを補うに相応しい(よって前衛運動として盛り上がりを見せた、ダダやシュルレアリズムは前時代の表現媒体(絵画、彫刻、詩等)で新しい概念の表現を模索しているので、凋落していくだろうとベンヤミンは捉えている)。

このように考えていくと、都市がさして目新しいものでなくなった今日において、都市文化のマニフェストとして読み解くのに異存はない。

しかしだ、アートに接しないひとが「芸術」という言葉で思い浮かべるのは「写真」や「映画」ではないだろう。やはり、「旧態依然」として「絵画」「彫刻」であると思う。周囲のアートに関心のない人に聞くと、大凡そうであろう。都市文化という面では正鵠を得たベンヤミンの理論は、そこに住まう都市民のアートに対する潜在意識と照合すると齟齬を来すことになるばかりか、逆にアートを観ようとする人を遠ざけているのではないか。

つまり、「都市に相応しい芸術形態」として展示される、新しい表現媒体(インスタレーション、ミクストメディア、写真等)は一部の人を満足させ多くの人が足を運びやすい、接しやすいと思いがちだが、それ程関心のない人にとって敬遠する要因となっている。何故なら、〈~の秘宝展〉や〈ダヴィンチ展〉のほうが遙かに集客数が多いし、彼等を惹きつける「芸術」であるからだ。

とは言え、クロスオーヴァーというジャンルがあるように、ハイアートだけでなく新しい表現媒体も受け入れるというのがいわゆる普通の人の反応であろう。つまり「真性なるもの」と思われていた絵画と、大凡のひとは「キッチュ」として見るであろう写真や映画(嗚呼、グリーンバーグ礼賛!)をごった煮にした状況が「都市」なんじゃないかと。

翻ってみて、都市は「良い面」と「悪い面」があると述べるが、その解消法は社会学や経済学、政治学等に任せて、アートは叙情性や詩学を導くものではないかと。言いたいのは、解消法としてのキュレーションならば問題提起を精緻にすべきであって、さらにはアートというものがシステマティックとまでは行かないまでも、ある問題に対する回答になりうるのかということだ。もしなりうるというのなら、それは方程式化したイデオロギーに過ぎなくなり、いたく退屈なものと映るであろう。

だから(芸術史から見て)「新しい表現形態」と「古い表現形態」に内在する共通性というか、自分の考える「都市」という何らかの概念が引き出せないと「対話」は引き出せないのではなかろうか。

と、友人の今後に期待しつつ批判を加えてみた。

9/13/2007

海辺にて

カフカではない。友人の企画展を土曜日(9/8)に見に行った。

友人(と自分が思っているだけで、あちらはどう思っているのやら)の橋本誠さんが、Bankart1929NYKにて企画展を開催している。「都市との対話」というタイトルだが、街のど真ん中のギャラリーではなく、海運会社が集う運河沿いの佇まいで9/17まで開催されている。

この日はアーティスト椿昇さんを迎えたトークイベントだったので、気になるテーマについて突っこんだことを聴けるのかと思い、何故か大友克洋作の漫画「アキラ」で予習。

しかしながらテーマというより、1アーティストがシステマティックな都市を含めた社会に対して、作品に加えどういう関わり方が可能かというケーススタディが示されたと思う。ワークショップ、資産としてアートを企業へ紹介すること、新聞欄での新旧含めた作品紹介等。それは作品という枠ではなく、作家活動(それをも作品として括るのは可能だが、ここでは保留)によって我々(私もかなり特異な人種だからこの枠には入れてもらえないかも)と等価であり、一方創造性が豊かだからかもしれないが、その旺盛ぶりに舌を巻いた。

とは言え、それは様々な事象に潜むコードや可能性を読み解く力、噛み砕けばものの見方を持っており、椿さんもそのようなことこそがアートではなくとも普通の生活においても重要とおっしゃっていた。

翻ってみて、グダグダと日常をぼやく自分の姿を悔い改めさせられた。

責任説明と歩み寄り

日が経ってしまったが、去る金曜(9/7)にAITで「ビエンナーレの未来を考える」のシンポに足を運んだ。実はこの日、お世話になったAITの方々に挨拶に伺うことになっていたので、そのついでとばかり長居させて頂き、シンポを拝聴した。

ビエンナーレというからには、ヴェネツィアカッセルミュンスター等の昨今めくるめく開催される国際美術展の報告かと思いっていた。しかし、それらとは異なる趣で行おうとする動きのドキュメントとしてゲストの皆さんが話をしていたように見えた。

途中から聴いたためうろ覚えだが、なるべく公的機関には頼らず、どうやって個人の興味ベースで物事を進めようとしているのかというのがまずある。それ故、音楽や映像といった従来では明らかに「偏りのある」作品形態が集結し、従来の「国際展」と異なってしまったという経緯と面白さを多少なり聴くことができた。講演者の毛利先生が「あーでもない、こーでもない」と言いながらも、クセのあるアーティスト達をまとめながら枠組みを構築しようとする態度も好感が持てる。

やはり、理念やプレゼン金の引っ張り方も大事だが、人柄がそれらに劣らずファクターとなっている気がする。

前回の横浜トリエンナーレの取り仕切り役であった川俣氏の場合も、彼自身が否定しなかったように、「コネクション」でアーティストを呼んだり、イベントが生まれたりした訳だし。あとは共通のコードとして何かしらのテーマ(「アートサーカス-日常からの跳躍」とか)があれば展覧会としてパッケージ化し、良い意味でも悪い意味でも、「どうにでもなる」。つまり、外部から見ると、理念と展示作品の繋がりによってのみ成立しているかに見える国際展も、内部からでは金や人間関係、会場の展示条件等で大枠が形成されるというギャップ。当たり前といえば、当たり前だがこうした相違点を埋めるのが両者の対話でありタウンミーティング、シンポジウムだと思う。

だから、両者の歩み寄りというか、有り体の言葉なら「理解」が展覧会そのものにあって然るべきだが、相手の言語レベルで歩み寄る必要はない。特に美術関係ではジャーゴンというか専門用語のようなモノを使うことで互いの関係密度を計る風潮があると思う。だからもっとわかりやすくというのは、ごもっとも。しかし、互いに使い慣れていない言語で言いたいことが言えないのは対話にはならない。授業とか講演とかそういった類のモノになる。だからどの点が理解できないのかを聞く、もしくは話している側に自覚させる。一見不躾だがそれによって互いの着地点を探ることが出来る。

それが今回のシンポになかったのは残念。

質問の際に、聴講生が「このシンポは何をいいたいのかが判らない」といってシンポ自体を批判していたが、そう思うのであれば、自分の理解を提示してそれでよいのか否か同意もしくはより具体的な説明を引き出すべきだろう。そう思ったら、質問でもっと聞き出せばいいのに…。講演者もサマリーとしての主旨とテーマくらい提示すれば、質問もよりつっこんだ所に行けた等と色々と考えさせられるところがあった。

あとは、研究している身なのからかよくわからないが、話しを聞く際、話されることについて少しでも前知識ってのは入れておくのかどうか。ある聴講者が「アーティストはオタクっぽい」と言っていたが、何故そう見えるのかも述べず、アーティストがどういう人かも全く言わず、自分だけの意見を言うのって失礼なんじゃないか?ある意味で自らの知ろうという好奇心を削いでいる。そういう人が最近多くなりましたな。

このシンポジウムに参加した人がいたら、問うてみたい。

「金を払っているから」という批判は、商品購買以外であるなら、あまりにも稚拙。

9/04/2007

reading



今日は仕事が定休日のため、一日中本を読む。


とりあえず、博士論文序章の土台を形成してくれるであろうボリス・グロイス著『Gesamtkunstwerk Stalin(全体主義様式スターリン)』『Utopiya i Obmen(ユートピアと交換)』を読みつつレジュメを作成。


1930年代のソ連芸術の概説として用いたいが、60-70年代のソ連芸術批評から30年代文化を照射し同一性を求める件があまりピンと来ない。まぁ、その頃の知識がないためだろうけど…


しかしながら、「(ソ連における)芸術家誰しもが権力への志向と権力側への同意・利用によって世界を創造する。アヴァンギャルドもその例外ではなく、むしろ彼等のプロジェクトはスターリン時代の美学によって完成した。というのも美学、政治、社会は国家という単一プロジェクトにおいて遂行されたから。」という論旨はベンヤミンの「美学の政治化」(彼が支持しないものとして表明されているが)とパラレルなものであろう。

このパラレルな点を絵画と展覧会構成という個別の作品や作家に当てはめられるかどうか。さらに外部からのソ連文化論としてクレメント・グリーンバーグ著『アヴァンギャルドとキッチュ』を組み込みたいのだが、さていかがしたものか…




9/03/2007

とりあえず第二弾

Tokyoartbeat

森村泰昌 「美の教室-静聴せよ」展
「オレのっ、オレのっ、俺の話を聴けえ~」
MAMプロジェクト006: 西野達
「トリックスター」。この言葉が西野には相応しい。奇術師ではなく、プロメテウスとして。
ル・コルビュジエ展:建築とアート、その創造と軌跡
「コルビュジェは何よりもまず、芸術家である」
国立ロシア美術館展-ロシア絵画の神髄
「藤森建築と路上観察」展
「肌理(きめ)細かく、肌触りを実感」
16 HOUR MUSEUM
ブルーノ・タウト 「アルプス建築から桂離宮へ」
ボリス・ミハイロフ 「昨日のサンドウィッチ」

いや~、月1で頑張って書いてました。
研究そっちのけで。

とりあえず

とりあえず、自己紹介も兼ねて自らが寄稿させていただいた記事を紹介。



MOT

【音楽】ギターウルフ

【展覧会】「東京画」展@トーキョーワンダーサイト渋谷

【PV】《ピエール瀧の体操30歳》、《ピエール瀧の体操36歳》

【パフォーマンス】村田峰紀

【現代美術】"you are out of you" 山根英房 展
【音楽】セニョール・ココナッツ

第二段もあります。