5/26/2008

息抜きⅡ

最近、またもやブログの行進を怠っている。

誰が読んでいるのか、皆目見当がつかないが、とりあえず書く。
書いて反応を待つ。

最近の怠っている理由は、論文執筆(外国語)に苦戦しており、夜半の自由時間が睡眠に持っていかれること。ろくな仕事もしていないのに、疲労困憊。体力の有難さを実感しています。

というわけで、最近は部屋にいると論文のことばかりに捕らわれてしまうので、読書をする際に利用するのが”cafe bilingua”というバー兼カフェ(下)。寮の近くの駅から4駅くらいなので、それほど疲れていなければ気晴らしによく行きます。


レストラン、バー、カフェが併設されており、カフェは注文しなければ基本タダ。写真でもわかるように本棚に囲まれており、そこから本を自由に取って読める。気に入ったら買うこともできます。夜はうっさい学生やナンパ目的のヨーロッパ人が集うんだが、21時くらいまでは平静で本を読むにはもってこいの場所。常連になってしまった私は近くのスーパーでジュースと菓子を買って4-5時間ぐらい居座っています。

でこのカフェにある本棚から発見したモスクワ建築関係の本でコルビュジェ的、というかモダニズム建築物を発見(下二つ)。

70年代後期のブレジネフ時代に建てられた住居で、建築家一族のメールソン二代目によるもの。日本ではこの時代「停滞」という言葉でソ連政治の凋落期なんて言われるけど、建築に関しておそらくこの言葉は当てはまらない。他にもこの本から面白い建築物を発見したので、次回報告。


とこのカフェで息抜きしながら論文頑張ってます。






5/20/2008

生きるとは、かくも厳しけり・・・

最近、寮の皆から「忙しいのか?」と言われる。

五分ほどじっくり考えてみた。
厳密には「忙しい」のではなく、やりたいことに手を付けすぎているから時間が足りなくなる。傍から見ると「忙しい」ことになる。

こちらに来て着手している建築史(西欧建築史とロシア・ソ連建築)の研究と海外雑誌に投稿を考えている論文執筆、コンテンポラリー・アート(モスクワね)の状況観察、生活のためのロシア語(これは「やりたいこと」に属さない)、無理言って書かせてもらっている原稿等。

よって食事と風呂(シャワー)を取るのが面倒になる。
さすがに風呂は二日に一回入らないとマズイ(匂う)ので、朝方入っているのだが食事は昼のみ。
という生活を約三ヶ月(論文に取り掛かり始めてから)続けていたら、びっくりするほど痩せた。

「働けど、働けどわが暮らし、楽にならざり、ぢっと手を見る」
啄木の唄ではないが、労働(研究等)によって得られる対価が何もないと虚無感に苛まれる。

早く論文書き終わりたい・・・

5/02/2008

「万国の労働者、団結せよ-Soezini vsech rabotshich iz raznich stran」















5/1について。


日本では、労働者の決起集会の日で、日比谷公園とかで労働組合の人たちがデモンストレーションをするという光景を目にする。


まぁ休日ではないし、会社で働いていた時も程遠い風景だったのであまりピンと来なかった。


しかし、ここモスクワでは休日となり、2日も休みで有難いGWが到来するのである。


しかもかつては建前上「労働者」が主役だったので、休日は当然ということになる。




もはや社会主義が崩壊したとは言え、デモンストレーションに参加する人は「労働組合」だけではなく、まぁ様々といったところ。そんなに気張って、権利を主張するというより、半ばお祭りです。


寮に住む友人の誘いで私も「デモ」に生まれて初めて参加してきました。



若人は友人に会いに来る目的で、ご老人は過去の記憶を回想しその記憶を伝達するために、その間の世代は政治的主張のためにデモをするといった印象を受けた。



本腰ではないのだろうけど、若者がヘソ出し(モスクワは日中もう19℃近くまで上昇)で携帯片手にプラカードを持って行進する姿に奇異を覚えながらも、すこし「ソヴィエト時代」を体感した。




かつて「啓蒙の弁証法」でホルクハイマーとアドルノは、「大衆社会において、全体主義は自己の喪失による「マゾヒズム的快楽」によって維持され、被統治者もそれを感受する」とか言って大衆社会を非難していた。このデモンストレーションに参加して、彼らの言うことを妙に納得。確かに何かのマッスと一体になると、単純に楽しいと感じるし、実際このデモに参加してそれなりに楽しかった。



この考えに対置されるのが、ヴァルター・ベンヤミン。確かジークフリート・クラカウアーが「小さいものの中にベンヤミンの哲学がある」と定義していた。つまりベンヤミンは大衆側にたって「下らない」とか「些細な」ことの中に、自己を投影する世界が果てしなく広がっていると主張しているということだ。



20代後半になると、理想であるとか高邁な精神がことごとく打ちひしがれていくので、変に凝り固まらずかく過ごしたいものである。


デモに参加してそう思った。