9/14/2007

海辺にて2

タイトルとは必然的にその内容を示唆するものである。

そういうわけで、今回も友人の企画展(「都市との対話展」)について。

9/11(火)、純粋に鑑賞を目的で再びBankart1929NYKに赴いた。平日なので周りの音もなく、旧倉庫という展示会場の静謐さも手伝い、落ち着いた環境で観ることとなった。

ちょっと待て。そもそも「落ち着いた」ということ自体、都市の中であり得ないだろと突っこみたくなる。だが、そこまで厳密に突き詰めるとあらゆる企画展が破綻してしまうので、作品の傾向を挙げるにとどめる。

様々な作品が出展されていて、それなりに面白いが、気になるのはいわゆる「絵画」が全く選定されていない点だ。一点、デザインのようなドローイングはあるがよく見るとニードルポイントの作品であって「絵画」ではない。

キュレーターが理論的支柱の1つとして挙げている、ヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代の芸術』の中で、下記のようなことを述べている。

即ち、芸術の受容層がハイソサイエティー(少数)から大衆(多数)に移りゆく過程に伴い、芸術も質から量へ転化する。そのため、今まで支配的であった絵画や彫刻といった表現媒体ではなく、新たな表現媒体である映画や写真に芸術の概念は移行すべきである。その中で礼拝的価値から展示的価値のパラダイム・チェンジが生じ、手業による職人技や個人芸ではなく複製という手法こそがそれを補うに相応しい(よって前衛運動として盛り上がりを見せた、ダダやシュルレアリズムは前時代の表現媒体(絵画、彫刻、詩等)で新しい概念の表現を模索しているので、凋落していくだろうとベンヤミンは捉えている)。

このように考えていくと、都市がさして目新しいものでなくなった今日において、都市文化のマニフェストとして読み解くのに異存はない。

しかしだ、アートに接しないひとが「芸術」という言葉で思い浮かべるのは「写真」や「映画」ではないだろう。やはり、「旧態依然」として「絵画」「彫刻」であると思う。周囲のアートに関心のない人に聞くと、大凡そうであろう。都市文化という面では正鵠を得たベンヤミンの理論は、そこに住まう都市民のアートに対する潜在意識と照合すると齟齬を来すことになるばかりか、逆にアートを観ようとする人を遠ざけているのではないか。

つまり、「都市に相応しい芸術形態」として展示される、新しい表現媒体(インスタレーション、ミクストメディア、写真等)は一部の人を満足させ多くの人が足を運びやすい、接しやすいと思いがちだが、それ程関心のない人にとって敬遠する要因となっている。何故なら、〈~の秘宝展〉や〈ダヴィンチ展〉のほうが遙かに集客数が多いし、彼等を惹きつける「芸術」であるからだ。

とは言え、クロスオーヴァーというジャンルがあるように、ハイアートだけでなく新しい表現媒体も受け入れるというのがいわゆる普通の人の反応であろう。つまり「真性なるもの」と思われていた絵画と、大凡のひとは「キッチュ」として見るであろう写真や映画(嗚呼、グリーンバーグ礼賛!)をごった煮にした状況が「都市」なんじゃないかと。

翻ってみて、都市は「良い面」と「悪い面」があると述べるが、その解消法は社会学や経済学、政治学等に任せて、アートは叙情性や詩学を導くものではないかと。言いたいのは、解消法としてのキュレーションならば問題提起を精緻にすべきであって、さらにはアートというものがシステマティックとまでは行かないまでも、ある問題に対する回答になりうるのかということだ。もしなりうるというのなら、それは方程式化したイデオロギーに過ぎなくなり、いたく退屈なものと映るであろう。

だから(芸術史から見て)「新しい表現形態」と「古い表現形態」に内在する共通性というか、自分の考える「都市」という何らかの概念が引き出せないと「対話」は引き出せないのではなかろうか。

と、友人の今後に期待しつつ批判を加えてみた。

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