9/13/2007

責任説明と歩み寄り

日が経ってしまったが、去る金曜(9/7)にAITで「ビエンナーレの未来を考える」のシンポに足を運んだ。実はこの日、お世話になったAITの方々に挨拶に伺うことになっていたので、そのついでとばかり長居させて頂き、シンポを拝聴した。

ビエンナーレというからには、ヴェネツィアカッセルミュンスター等の昨今めくるめく開催される国際美術展の報告かと思いっていた。しかし、それらとは異なる趣で行おうとする動きのドキュメントとしてゲストの皆さんが話をしていたように見えた。

途中から聴いたためうろ覚えだが、なるべく公的機関には頼らず、どうやって個人の興味ベースで物事を進めようとしているのかというのがまずある。それ故、音楽や映像といった従来では明らかに「偏りのある」作品形態が集結し、従来の「国際展」と異なってしまったという経緯と面白さを多少なり聴くことができた。講演者の毛利先生が「あーでもない、こーでもない」と言いながらも、クセのあるアーティスト達をまとめながら枠組みを構築しようとする態度も好感が持てる。

やはり、理念やプレゼン金の引っ張り方も大事だが、人柄がそれらに劣らずファクターとなっている気がする。

前回の横浜トリエンナーレの取り仕切り役であった川俣氏の場合も、彼自身が否定しなかったように、「コネクション」でアーティストを呼んだり、イベントが生まれたりした訳だし。あとは共通のコードとして何かしらのテーマ(「アートサーカス-日常からの跳躍」とか)があれば展覧会としてパッケージ化し、良い意味でも悪い意味でも、「どうにでもなる」。つまり、外部から見ると、理念と展示作品の繋がりによってのみ成立しているかに見える国際展も、内部からでは金や人間関係、会場の展示条件等で大枠が形成されるというギャップ。当たり前といえば、当たり前だがこうした相違点を埋めるのが両者の対話でありタウンミーティング、シンポジウムだと思う。

だから、両者の歩み寄りというか、有り体の言葉なら「理解」が展覧会そのものにあって然るべきだが、相手の言語レベルで歩み寄る必要はない。特に美術関係ではジャーゴンというか専門用語のようなモノを使うことで互いの関係密度を計る風潮があると思う。だからもっとわかりやすくというのは、ごもっとも。しかし、互いに使い慣れていない言語で言いたいことが言えないのは対話にはならない。授業とか講演とかそういった類のモノになる。だからどの点が理解できないのかを聞く、もしくは話している側に自覚させる。一見不躾だがそれによって互いの着地点を探ることが出来る。

それが今回のシンポになかったのは残念。

質問の際に、聴講生が「このシンポは何をいいたいのかが判らない」といってシンポ自体を批判していたが、そう思うのであれば、自分の理解を提示してそれでよいのか否か同意もしくはより具体的な説明を引き出すべきだろう。そう思ったら、質問でもっと聞き出せばいいのに…。講演者もサマリーとしての主旨とテーマくらい提示すれば、質問もよりつっこんだ所に行けた等と色々と考えさせられるところがあった。

あとは、研究している身なのからかよくわからないが、話しを聞く際、話されることについて少しでも前知識ってのは入れておくのかどうか。ある聴講者が「アーティストはオタクっぽい」と言っていたが、何故そう見えるのかも述べず、アーティストがどういう人かも全く言わず、自分だけの意見を言うのって失礼なんじゃないか?ある意味で自らの知ろうという好奇心を削いでいる。そういう人が最近多くなりましたな。

このシンポジウムに参加した人がいたら、問うてみたい。

「金を払っているから」という批判は、商品購買以外であるなら、あまりにも稚拙。

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