3/23/2009

君のひとみは10,000ボルト

1978年、堀内孝雄(作詞:谷村新司)。


すごいタイトルだな~。
ベタっす。でも改めてこのお二方の歌唱力とリズム感に脱帽。

とりあえず、DJする時にヘビーローテにする曲を下に貼っておきます。
コンガ(よく聴いてね)とご両人のコブシがこれほどマッチングするとは!
彼らの息の長さとコンガの刻み具合が、2:1くらい。
舞台美術も素晴らしい。
ご堪能あれ。




この映像をじーっと見ながら曲を聴くと、
A.ロトチェンコのマヤコフスキイの肖像写真(1924年)を思い出す(下)。



刃のような眼光を投げつけるが、
友人のロトチェンコは彼の誇大的な性格と振る舞いを熟知していた。

そのことが反映されているかどうかわからないが、
マヤコフスキイを座らせたフォーカスポイントは壁の模様なっている十字の交点。
心臓の位置に標的を定めるかのごとく。

危険に晒されながらも、
十月革命の寵児として振る舞う宿命を背負わされたヴァロージャ(マヤコフスキイの愛称)
への祈りか。

「立たないで、もうそれで充分だ。おぉ、神よ。彼を、救いたまえ!」

3/22/2009

骰子一擲

サイは投げられた。

まぁ、「一回休み」とかにはまらなければよいが。
とりあえず、先週無事(?)学会発表も終わり当分プレッシャーのない生活。


久しぶりに自分の資金ぶりを案じ、資金調達を考え、
奨学金申請書類に取り掛かる。
だが「目的/意義」のところで躓く。


現段階では、
「1930年代の都市計画+国家規模建築プランに見る古典建築様式の勃興=アンサンブル・イデオロギー」
(長いな)というテーマで進めていき、博論へ突っ走ろうとしている。
そのため、経緯と今後の課題、手立てはスラスラ出てくる。


しかし、「目的/意義」だ。
正直言うと、ない。というか、うまく結び付けられない。
突き詰めていくと、単純に「知らないから知りたいだけ」であって、
これを正直には出さず上手くオブラートでつつみこんでいかなきゃいかんのだが、
アイデアが出ない。



その代わりに身から出るのは金。
この間の金曜は友人が一日店長を務めるバーにて飲む(下)。







幸い横浜でやっていたので、深夜三時くらいまでのみストレス発散。
次の日何も手をつけられず…


来週は友人の結婚式二次会に呼ばれている。


二次会だけというのは初めてのため、ネットでどんな服装が適しているか調べる。
そうか、今の人たちは二次会も気合入れた格好でくるのかと感心。
結局、適した服がないためそれなりのものを購入。
まぁ久しぶりに友人らと会うからこれくらい出費してもいいか。


と、それなりに良い方向にコマは進んでいるようだ。

3/06/2009

文字情報、是まさに文字なり。

目がシパシパする。

1つは本との距離が近いこと。
もう1つは外国語書籍が古く、インクが臭くて、目が明らかに拒否反応していること。
ファブリーズを試すが、頑固な匂いは落ちない。


来週の学会発表に向けて、話すネタのため毎晩研究対象の年代の本を読んでいる。
建築様式について発表するんだけど、対象とする時代において「建築様式は政治言説によって何でも成り得た」。
だから建築要素云々じゃなくて、「生活の快活さ、社会主義建設の熱き鼓動」の表現形態たり得なくてはならない。そうすると、装飾というものが非常に重要味を帯びてくる。

それも古典建築様式で用いられる原理からはみ出て、彫刻や絵画として認識されたかたちで。


だから建築が上位にあってそれにあわせた装飾というよりも彫刻、絵画、建築が渾然一体となるコングロマティック。こんなんができちゃいました(下:V.イオファン、K.アラビャン、1939、ニューヨーク国際博覧会、ソ連パヴィリオン)。




五十嵐太郎氏が「建築と音楽は直接的に感情を表現し得ない」ということを、どこかの言説から引用し説明を加えていたが(『建築と音楽』)、上の作品を見るとそうした論理枠から超えたものを垣間見るというか…
まだ勉強不足だな。
発表原稿と何しゃべるかきちんと考えるとするか

3/01/2009

新たなる出立

昨日、所属する大学の教授の最終講義を聴きに、学校へ久々に行く。

きれいな建物で冷暖房完備なんだけど、非常に寒い。
原因はガラスの壁と屋根。


開放感があっていいとは思うが、大学が閑静な住宅街にあり山が一望できる場所にあるのでやはり環境とあっていない。


ピーター・アイゼンマンの《布谷東京ビル》(下)みたいに周囲から浮いてる感じだ。欝の学生が増えます。


まぁ、そんな雑談はいいとして、W先生の最終講義は超満員(下)。




彼の人柄がそうさせたのでしょう。非常に幅広い年齢層の人が訪れていました。


知的好奇心を常に持ちながらも、良き師として学生の指導にあたっていたということが、講義の節々にでる学生への問いかけであったり、思い出話に滲み出ておりました。


その中で、彼の専門の「ユーラシア主義」という思想哲学から紡ぎだされた「全体と個」という概念。もちろん、ライプニッツの『モナド論』への懐疑から出発しているから哲学やそれと絡んだ文学に通用するのだろうけれど、18c-19cの建築(モスクワ・バロック、庭園様式)の建築物と建築アンサンブル空間にも絡むのかと悩む。


ここでいう「個」(個々の建築物)は人の時間単位でカウントするのではなく、様式生成というちょっと長い時間単位で計測する。そうすると、以前あった建物の影響から新しい建築物はそれと波長を合わせたかたちで形成され、全体が整ったようなアンサンブルを生み出すというのが18c-19cの建築におけるアンサンブル。


でも、その建築様式と近い1930年代のソ連建築には更に別の「全体と個」が纏われる。「権力と建築家」、「都市計画と建築物」。なんか、K学長が提唱するこの時代の「熱狂空間」創出へと論が向かいそう。とは言え、この点を勉強しようと思い立ち、あるプランを思いつく。