9/21/2007

世界の果て

9/15(土)、イリヤ・カバコフ『世界図鑑』神奈川県立近代美術館の葉山にて開催されるとのことで、TABでのレビューついでに鑑賞しに行く。








絵本ということだったので、ロシア・アヴァンギャルド時代のような絵本(2004年に東京庭園美術館でかいさいされたような作風)だろうと思いきや、ちょっと違う。何というか、「あーソ連の70-80年代の絵本ってこんな感じか」という印象を受ける。これは入り口すぐのところでカバコフが記しているように、「職業」として制作したものだから「僕の独自性が発揮されたものではありません」という発言に由来するのか。






ふつうなら、「じゃあ鑑賞する意味ないじゃん」といきたいとこだが、カバコフが「自分のため」に制作した作品(トータル・インスタレーションとして括られている)と見比べると面白いかもしれません。








カバコフの画風がどうのこうのというよりも、彼のイラストしか展示されていない。だから、当時の他の絵本と比べようがなく、どの点(筆致、色彩センス、モチーフの捉え方、具象的OR抽象的とか)で「カバコフ風」なのかわからない。これは「個展」だから、他との比較がなくてよいのか?「独自」とか「~の作品に似ている」とか鑑賞者が判断すべきだから、「こんな感じで他の作家は描いてます」というのを展示してもいいと思うんだけどな。








文句ばかり言ってないで、展示の良かった点は、薄暗さと一定の高さで配置されているから絵本のページを繰るように鑑賞できたところか。絵本というメディアが小さく美術館の小ささは相対的に大きく感じた。あとは絵本ついでに制作したと思われる塗り絵を飾るコーナーがあるんだが、「これ検閲に引っかかるでしょ」という内容の言葉があったりと、必ずしも「体制に絡めとられた」わけでもない作品が展示されていたりと、カバコフの「綱渡り」的センスも垣間見ることができる。






それにしても、携帯(ソフトバンクのノキアのやつ)が全く通じないのは痛かったな。ランチは2000円だし…まぁ、風景が綺麗だから、展示作品を見ずとも観光として行くのも善いかもしれません。









海一面に囲まれ、もう存在しない国、ソ連時代の絵本に囲まれる。どことなく、エーリク・ブラートフの《水平線》(上図)を思い出してしまったのはソ連絵画病ですかね。






とにかく博士には出費がかさみました。ま楽しかったから、いいか。

9/16/2007

あまりに学長的な。

またもやタイトルに内容の示唆を込めてみた。


ドストエフスキイの新訳(『カラマーゾフの兄弟』)で破格の注目を集めている(と思う)亀山郁夫氏が、私の師(指導教官)です。一応美術史とは言え、地域研究科に所属することもあって一国の文化として括られ、彼の指導を給わっている次第であります。

だから、文化史をベースに修士と博士課程で研究に勤しんでいたこともあり、私は美術史や美学の一般的知識に欠けております。かといって「かの国」の文化全般に通暁するわけでもなく、非常に狭い時期のあるアーティストを追い続けている。そんな私にも9/13(水)に救いの手は差し延べられました。

私が留学前ということと、指導教官が学長職就任し指導教官がドイツ語の教授に移るということで、現段階での博士論文計画をご高覧頂くことになったのです。

元々対象と時代、そしてケース・スタディーとして作品分析で用いる作品群(展覧会構成と建築プラン)は固まっていたので、一ヶ月前から日々弛むことなく概要とレジュメを書き続けておりました。表現に技巧性を求められたものの、何とか博士論文執筆許可が下りました。

しかしながら、基盤分野が全く異なるのに、核となるのは、全体主義時代(1930年代)おいて対象とする芸術家がミメーシス(模擬的再現)とエクスプレッション(自己表出)を包含し権力者ないしは神に近い立場にあったのではないか。それによって、教条主義的な社会主義リアリズムという芸術潮流の只中で、作家性を保つことが出来たのではというもの(その芸術家の名前がある言語で「神」という意味なのです)。結局、指導教官の影響、どっぷりだったんだなーと改めて実感した。

書けるんだろうか。

9/14/2007

海辺にて2

タイトルとは必然的にその内容を示唆するものである。

そういうわけで、今回も友人の企画展(「都市との対話展」)について。

9/11(火)、純粋に鑑賞を目的で再びBankart1929NYKに赴いた。平日なので周りの音もなく、旧倉庫という展示会場の静謐さも手伝い、落ち着いた環境で観ることとなった。

ちょっと待て。そもそも「落ち着いた」ということ自体、都市の中であり得ないだろと突っこみたくなる。だが、そこまで厳密に突き詰めるとあらゆる企画展が破綻してしまうので、作品の傾向を挙げるにとどめる。

様々な作品が出展されていて、それなりに面白いが、気になるのはいわゆる「絵画」が全く選定されていない点だ。一点、デザインのようなドローイングはあるがよく見るとニードルポイントの作品であって「絵画」ではない。

キュレーターが理論的支柱の1つとして挙げている、ヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代の芸術』の中で、下記のようなことを述べている。

即ち、芸術の受容層がハイソサイエティー(少数)から大衆(多数)に移りゆく過程に伴い、芸術も質から量へ転化する。そのため、今まで支配的であった絵画や彫刻といった表現媒体ではなく、新たな表現媒体である映画や写真に芸術の概念は移行すべきである。その中で礼拝的価値から展示的価値のパラダイム・チェンジが生じ、手業による職人技や個人芸ではなく複製という手法こそがそれを補うに相応しい(よって前衛運動として盛り上がりを見せた、ダダやシュルレアリズムは前時代の表現媒体(絵画、彫刻、詩等)で新しい概念の表現を模索しているので、凋落していくだろうとベンヤミンは捉えている)。

このように考えていくと、都市がさして目新しいものでなくなった今日において、都市文化のマニフェストとして読み解くのに異存はない。

しかしだ、アートに接しないひとが「芸術」という言葉で思い浮かべるのは「写真」や「映画」ではないだろう。やはり、「旧態依然」として「絵画」「彫刻」であると思う。周囲のアートに関心のない人に聞くと、大凡そうであろう。都市文化という面では正鵠を得たベンヤミンの理論は、そこに住まう都市民のアートに対する潜在意識と照合すると齟齬を来すことになるばかりか、逆にアートを観ようとする人を遠ざけているのではないか。

つまり、「都市に相応しい芸術形態」として展示される、新しい表現媒体(インスタレーション、ミクストメディア、写真等)は一部の人を満足させ多くの人が足を運びやすい、接しやすいと思いがちだが、それ程関心のない人にとって敬遠する要因となっている。何故なら、〈~の秘宝展〉や〈ダヴィンチ展〉のほうが遙かに集客数が多いし、彼等を惹きつける「芸術」であるからだ。

とは言え、クロスオーヴァーというジャンルがあるように、ハイアートだけでなく新しい表現媒体も受け入れるというのがいわゆる普通の人の反応であろう。つまり「真性なるもの」と思われていた絵画と、大凡のひとは「キッチュ」として見るであろう写真や映画(嗚呼、グリーンバーグ礼賛!)をごった煮にした状況が「都市」なんじゃないかと。

翻ってみて、都市は「良い面」と「悪い面」があると述べるが、その解消法は社会学や経済学、政治学等に任せて、アートは叙情性や詩学を導くものではないかと。言いたいのは、解消法としてのキュレーションならば問題提起を精緻にすべきであって、さらにはアートというものがシステマティックとまでは行かないまでも、ある問題に対する回答になりうるのかということだ。もしなりうるというのなら、それは方程式化したイデオロギーに過ぎなくなり、いたく退屈なものと映るであろう。

だから(芸術史から見て)「新しい表現形態」と「古い表現形態」に内在する共通性というか、自分の考える「都市」という何らかの概念が引き出せないと「対話」は引き出せないのではなかろうか。

と、友人の今後に期待しつつ批判を加えてみた。

9/13/2007

海辺にて

カフカではない。友人の企画展を土曜日(9/8)に見に行った。

友人(と自分が思っているだけで、あちらはどう思っているのやら)の橋本誠さんが、Bankart1929NYKにて企画展を開催している。「都市との対話」というタイトルだが、街のど真ん中のギャラリーではなく、海運会社が集う運河沿いの佇まいで9/17まで開催されている。

この日はアーティスト椿昇さんを迎えたトークイベントだったので、気になるテーマについて突っこんだことを聴けるのかと思い、何故か大友克洋作の漫画「アキラ」で予習。

しかしながらテーマというより、1アーティストがシステマティックな都市を含めた社会に対して、作品に加えどういう関わり方が可能かというケーススタディが示されたと思う。ワークショップ、資産としてアートを企業へ紹介すること、新聞欄での新旧含めた作品紹介等。それは作品という枠ではなく、作家活動(それをも作品として括るのは可能だが、ここでは保留)によって我々(私もかなり特異な人種だからこの枠には入れてもらえないかも)と等価であり、一方創造性が豊かだからかもしれないが、その旺盛ぶりに舌を巻いた。

とは言え、それは様々な事象に潜むコードや可能性を読み解く力、噛み砕けばものの見方を持っており、椿さんもそのようなことこそがアートではなくとも普通の生活においても重要とおっしゃっていた。

翻ってみて、グダグダと日常をぼやく自分の姿を悔い改めさせられた。

責任説明と歩み寄り

日が経ってしまったが、去る金曜(9/7)にAITで「ビエンナーレの未来を考える」のシンポに足を運んだ。実はこの日、お世話になったAITの方々に挨拶に伺うことになっていたので、そのついでとばかり長居させて頂き、シンポを拝聴した。

ビエンナーレというからには、ヴェネツィアカッセルミュンスター等の昨今めくるめく開催される国際美術展の報告かと思いっていた。しかし、それらとは異なる趣で行おうとする動きのドキュメントとしてゲストの皆さんが話をしていたように見えた。

途中から聴いたためうろ覚えだが、なるべく公的機関には頼らず、どうやって個人の興味ベースで物事を進めようとしているのかというのがまずある。それ故、音楽や映像といった従来では明らかに「偏りのある」作品形態が集結し、従来の「国際展」と異なってしまったという経緯と面白さを多少なり聴くことができた。講演者の毛利先生が「あーでもない、こーでもない」と言いながらも、クセのあるアーティスト達をまとめながら枠組みを構築しようとする態度も好感が持てる。

やはり、理念やプレゼン金の引っ張り方も大事だが、人柄がそれらに劣らずファクターとなっている気がする。

前回の横浜トリエンナーレの取り仕切り役であった川俣氏の場合も、彼自身が否定しなかったように、「コネクション」でアーティストを呼んだり、イベントが生まれたりした訳だし。あとは共通のコードとして何かしらのテーマ(「アートサーカス-日常からの跳躍」とか)があれば展覧会としてパッケージ化し、良い意味でも悪い意味でも、「どうにでもなる」。つまり、外部から見ると、理念と展示作品の繋がりによってのみ成立しているかに見える国際展も、内部からでは金や人間関係、会場の展示条件等で大枠が形成されるというギャップ。当たり前といえば、当たり前だがこうした相違点を埋めるのが両者の対話でありタウンミーティング、シンポジウムだと思う。

だから、両者の歩み寄りというか、有り体の言葉なら「理解」が展覧会そのものにあって然るべきだが、相手の言語レベルで歩み寄る必要はない。特に美術関係ではジャーゴンというか専門用語のようなモノを使うことで互いの関係密度を計る風潮があると思う。だからもっとわかりやすくというのは、ごもっとも。しかし、互いに使い慣れていない言語で言いたいことが言えないのは対話にはならない。授業とか講演とかそういった類のモノになる。だからどの点が理解できないのかを聞く、もしくは話している側に自覚させる。一見不躾だがそれによって互いの着地点を探ることが出来る。

それが今回のシンポになかったのは残念。

質問の際に、聴講生が「このシンポは何をいいたいのかが判らない」といってシンポ自体を批判していたが、そう思うのであれば、自分の理解を提示してそれでよいのか否か同意もしくはより具体的な説明を引き出すべきだろう。そう思ったら、質問でもっと聞き出せばいいのに…。講演者もサマリーとしての主旨とテーマくらい提示すれば、質問もよりつっこんだ所に行けた等と色々と考えさせられるところがあった。

あとは、研究している身なのからかよくわからないが、話しを聞く際、話されることについて少しでも前知識ってのは入れておくのかどうか。ある聴講者が「アーティストはオタクっぽい」と言っていたが、何故そう見えるのかも述べず、アーティストがどういう人かも全く言わず、自分だけの意見を言うのって失礼なんじゃないか?ある意味で自らの知ろうという好奇心を削いでいる。そういう人が最近多くなりましたな。

このシンポジウムに参加した人がいたら、問うてみたい。

「金を払っているから」という批判は、商品購買以外であるなら、あまりにも稚拙。

9/04/2007

reading



今日は仕事が定休日のため、一日中本を読む。


とりあえず、博士論文序章の土台を形成してくれるであろうボリス・グロイス著『Gesamtkunstwerk Stalin(全体主義様式スターリン)』『Utopiya i Obmen(ユートピアと交換)』を読みつつレジュメを作成。


1930年代のソ連芸術の概説として用いたいが、60-70年代のソ連芸術批評から30年代文化を照射し同一性を求める件があまりピンと来ない。まぁ、その頃の知識がないためだろうけど…


しかしながら、「(ソ連における)芸術家誰しもが権力への志向と権力側への同意・利用によって世界を創造する。アヴァンギャルドもその例外ではなく、むしろ彼等のプロジェクトはスターリン時代の美学によって完成した。というのも美学、政治、社会は国家という単一プロジェクトにおいて遂行されたから。」という論旨はベンヤミンの「美学の政治化」(彼が支持しないものとして表明されているが)とパラレルなものであろう。

このパラレルな点を絵画と展覧会構成という個別の作品や作家に当てはめられるかどうか。さらに外部からのソ連文化論としてクレメント・グリーンバーグ著『アヴァンギャルドとキッチュ』を組み込みたいのだが、さていかがしたものか…




9/03/2007

とりあえず第二弾

Tokyoartbeat

森村泰昌 「美の教室-静聴せよ」展
「オレのっ、オレのっ、俺の話を聴けえ~」
MAMプロジェクト006: 西野達
「トリックスター」。この言葉が西野には相応しい。奇術師ではなく、プロメテウスとして。
ル・コルビュジエ展:建築とアート、その創造と軌跡
「コルビュジェは何よりもまず、芸術家である」
国立ロシア美術館展-ロシア絵画の神髄
「藤森建築と路上観察」展
「肌理(きめ)細かく、肌触りを実感」
16 HOUR MUSEUM
ブルーノ・タウト 「アルプス建築から桂離宮へ」
ボリス・ミハイロフ 「昨日のサンドウィッチ」

いや~、月1で頑張って書いてました。
研究そっちのけで。

とりあえず

とりあえず、自己紹介も兼ねて自らが寄稿させていただいた記事を紹介。



MOT

【音楽】ギターウルフ

【展覧会】「東京画」展@トーキョーワンダーサイト渋谷

【PV】《ピエール瀧の体操30歳》、《ピエール瀧の体操36歳》

【パフォーマンス】村田峰紀

【現代美術】"you are out of you" 山根英房 展
【音楽】セニョール・ココナッツ

第二段もあります。