1/15/2008

研究という「アヘン」の効用について

年初は昨年を悔い改めて、悪い癖を治そうとするが、一週間経つと昨年のままというのが人間の悲しい性。日課として始めたブログも一週間果ては二週間に一遍ペースに落ち込んでおります。
年末、年始はいかがお過ごしでしたか?
私は例の原稿と風邪とある研究機関でのプレゼンで脳味噌ばかりか、眼前の風景(熱によるめまいと実際の天候)すらも渦巻いておりました。

プレゼンを翌日に控え、やっと一息といったところです。
私の住んでいる寮は、この時期になると留学生の帰国ラッシュでガランとしてしまい少々寂しくなります。一方で静寂が訪れるため、多少集中して本が読めるという建前としてはありがたい環境となりました。そのおかげで何とか10月に購入した、ソ連建築史に関する本二冊を読破し、次なる論文の構成をこねくり回す日々。

充実というか、読書が進むにつれ余計に問題意識が深まりのめりこんでしまうので、一種アヘンをやっているようなものです。

そのアヘンが効いているのかどうかわかりませんが、地下鉄を利用するとどうしても駅のレリーフや細部の装飾をまじまじと眺めてしまいます。というのも、モスクワの地下鉄駅は西欧建築史でも特殊な位置を占めるように、一種のプロパガンダ建築として国家の総意を挙げて作成されたものなので、ソ連建築史で有名な建築家、彫刻家、画家が壁画レリーフ、彫刻、柱頭、入り口の制作に携わっているのです。だから、下手な美術館に行くより、それこそ「ぶらり途中下車」したほうがアート作品を鑑賞できるのです(写真はキエフ駅(上)と寮の近くのノボスロボスク駅(下)の写真)。

古典建築様式やその装飾に労働者像やシンボルだった「鍬とハンマー」が随所で調和しているという奇妙を通り越した、「ソ連建築様式」としか呼びようのない空間が展開。古典様式と、当時最新であるはずの「社会主義思想」。これほどまでに矛盾したものが、庶民の日常である地下鉄で否応なしに存在する光景って、ある意味コンテンポラリーアートより深いものを備えているのかもしれません。

まぁ、でも地元の連中はそんなことなどあまり意識しないみたいですが。こうしたものの見方も、結局外から来た人間であるからであって、アートが日常に融解しているということになるんでしょうか。

「建築を学ぶものはブラジリア(都市全体がモダニズム建築家オスカー・ニーマイヤーの作品となっているため)には一度訪れたほうがよい」というらしいですが、「モスクワの地下鉄駅も」と付け加えるべき。

先日、モスクワに仕事でいらっしゃっていた横浜国大のO先生と話をした時にモスクワ地下鉄駅について延々と語ってしまい、身の振りをわきまえず、アヘンの恐ろしさを改めて感じました。

これからそのアヘンによるトリップをある研究機関のプレゼンで合法的に発揮してまいります。

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