金曜日、仕事中に友人のI君より突然電話。
「本日アートセンターongoingでパフォーマンスやるから来て」
って、その日はある論文を読破しようと決め込んでたので、少々悩む。
って、その日はある論文を読破しようと決め込んでたので、少々悩む。
16時ごろ。
運よく仕事が定時で終わり、まぁ作品見る機会もあんまりないからいいかということで、
帰路を逆走。吉祥寺へ。
結構いるのかなと思い、軒をくぐると、よくお会いする面子が。
思っていたよりこじんまりした空間。
思っていたよりこじんまりした空間。
「これはこれでよい」とあたりを見回していると、I君のプレゼンスタート。
親密という彼に対する私の思い込みから、書かせてもらえば、「もうちょっと制作と作品と行為の関係をまとめろよ。博士論文の「circurate」という言葉を自分なりに噛み砕いて」(飽くまで主観です)。
この批判は、結局、自らの戒めでもあるんだけれど(研究対象と現行の論文、博士論文の繋がり)。
でパフォーマンス開始(下)。
特殊な清掃服に着替え、展示会場の一角にある台の上据付の水槽に立つ。様々なファーストフード(マック、ケンタ、吉牛、ミスド)をバケツから取り出し、食す。
その食べかけを洗剤の入った水槽に入れ、スポンジで洗う。パンの皮やらボロボロになった具を取り出し再び食す。ジュースも飲んで、水槽に入れて水槽の水と混じったものを取り出し飲む(下)。
用意してあったファーストフード全てを「洗い」終わると、水槽にたまった残存物を集め、買った時に入っていた容器に戻しバケツの上に陳列し直して終わり。
こう書くと、ソ連のコンセプチュアル・アーティスト兼作家・脚本家ヴラジーミル・ソローキンの「可能性」みたい。水槽の下にはカメラが設置してあり、パフォーマンスをしている舞台正面のモニターにその様子が映る(上)。
友人のOさんが見に行ったという芸大博士審査展では、彼自身が頭を突っ込み自らを「洗った」そうだ。
今回は食べ物。circurateという彼の軸とするキーワードから、勝手に解釈すれば、生の営みを主体から徐々にずらす試みなのか(身体→生命活動を支える食物)。次だね。このcircurateがどう駆動していくか、もしくは彼の主軸がしっかりしているのかどうかを見極めるのは。
とは言え、あえてブれているように見せるとおもう。そこをいかに言語というものではぐらかし、必ずしも「日常への循環」ではなく、行為と言葉による回収不可能性によって、circurateが打ち出せるか。
余計なお世話だが、頑張れとエール。
やはり自分への意味も込めて…
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