5/02/2008
「万国の労働者、団結せよ-Soezini vsech rabotshich iz raznich stran」
5/1について。
日本では、労働者の決起集会の日で、日比谷公園とかで労働組合の人たちがデモンストレーションをするという光景を目にする。
まぁ休日ではないし、会社で働いていた時も程遠い風景だったのであまりピンと来なかった。
しかし、ここモスクワでは休日となり、2日も休みで有難いGWが到来するのである。
しかもかつては建前上「労働者」が主役だったので、休日は当然ということになる。
もはや社会主義が崩壊したとは言え、デモンストレーションに参加する人は「労働組合」だけではなく、まぁ様々といったところ。そんなに気張って、権利を主張するというより、半ばお祭りです。
寮に住む友人の誘いで私も「デモ」に生まれて初めて参加してきました。
若人は友人に会いに来る目的で、ご老人は過去の記憶を回想しその記憶を伝達するために、その間の世代は政治的主張のためにデモをするといった印象を受けた。
本腰ではないのだろうけど、若者がヘソ出し(モスクワは日中もう19℃近くまで上昇)で携帯片手にプラカードを持って行進する姿に奇異を覚えながらも、すこし「ソヴィエト時代」を体感した。
かつて「啓蒙の弁証法」でホルクハイマーとアドルノは、「大衆社会において、全体主義は自己の喪失による「マゾヒズム的快楽」によって維持され、被統治者もそれを感受する」とか言って大衆社会を非難していた。このデモンストレーションに参加して、彼らの言うことを妙に納得。確かに何かのマッスと一体になると、単純に楽しいと感じるし、実際このデモに参加してそれなりに楽しかった。
この考えに対置されるのが、ヴァルター・ベンヤミン。確かジークフリート・クラカウアーが「小さいものの中にベンヤミンの哲学がある」と定義していた。つまりベンヤミンは大衆側にたって「下らない」とか「些細な」ことの中に、自己を投影する世界が果てしなく広がっていると主張しているということだ。
20代後半になると、理想であるとか高邁な精神がことごとく打ちひしがれていくので、変に凝り固まらずかく過ごしたいものである。
デモに参加してそう思った。
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